和歌山市の巨樹・古木

1.「岡山の根上り松群」(令和5年5月2日作成)

(1)所在地:和歌山市吹上町1丁目1(和歌山大学教育学部附属小・中学校)

(2)種類等:クロマツ(県指定天然記念物、幹廻り 不明、樹齢 不明)

   

 ↑  和歌山大学教育学部附属小・中学校

 附属小・中学校のある場所は『伏虎山からのびる砂丘で、吹上の峯と云い岡山・奥山ともいった。

 旧藩時代、此処に岡山文武官がおかれ、南は和歌浦、西は紀淡海峡を望み、北は伏虎城(和歌山城)を仰ぎみ紀の川の流れを超えて遥か紀泉の連山望む風光明媚な土地であった。

 慶応二年、これが学習館とよばれ、文武合併の教授所となり紀州の藩立学校となり、明治二年藩制改革の際に学制を改革して四民のための学校となり、「館内の席次ハ身分ノ高卑ヲ論セス其学力ノ次序ニ拠ル」べきものとした。』とあり、長い歴史と伝統のある学校です。〈 附属小学校の歴史より抜粋 〉

   

   ↑ 根上り松の全景

        

   ↑ 根上り松の近景

   

   ↑ 紀伊国名所絵図
 岡山は、古い和歌山湾の海浜に添って形成された何本かの砂丘の一つで、、此処吹上一丁目の附属小・中学校構内付近は、比較的本来の姿が残っている。

 砂丘上にはクロマツ林が自生しているが、その中で根元が露呈した特異な姿を示すものが何本かあり、根上り松と呼ばれ、奇観として「紀伊国名所絵図」(1811年刊行)にも記載されているが現在ではこの岡山砂丘のものだけが残っている。

 〈 岡山の根上り松群の説明書より抜粋 〉

 場所が分からず、県立博物館の職員の方に色々お聞きし『附属小・中学校の構内にあり、昔は八本ほどあったが今は一本しか残っていない様です』と忙しい中、親切に教えて頂いたお陰で根上り松に出逢う事ができました。

 永い歳月が奇観を生み出した貴重な自然遺産が、運動場の真ん中に残っているのを見て、学校関係者や児童・生徒の皆さんがこの松に対する強い思いが感じられ、末永く大切に保存して頂きたいと願うばかりである。

2.「一の橋の樟」(令和5年5月2日作成)

(1)所在地:和歌山市一番町(和歌山城

(2)種類等:クス(県指定天然記念物、幹廻り 7m、樹齢 400~500年)

   

   ↑ 一の橋と大手門

 和歌山城内に入る正面の大手門と一の橋である。天正13年(1585)に羽柴秀吉の命で弟の秀長が築城、家老桑山重晴を城代として置きました。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修繕を行い、浅野期の途中で内郭北東部のこの位置に橋を架け門を設置して大手とした。

 紀州徳川家も引き続きここを大手としたが、橋を「市の橋」、門を「市の橋御門」と呼んでいたが、寛政8年(1769)から「大手御門」と改称し、橋は「一の橋」に変えた。

 大手門は高麗門形式で土塀や多門が連なり西の石垣には月見櫓が建っていて、一の橋には高欄擬宝珠がつけられていた。

   

  ↑ 樟守神社とご神木の樟樹

   

  ↑ 石垣下より見上げるご神木の樟樹
 一の橋を渡り大手門から場内に入ると、すぐ右側石垣の上に立つ樟の大樹が目に入ります。

 樹齢は400~500年と云われ幹の周囲7m、樹高25mで巨大な樹冠を形成し、太い枝を四方に伸ばし、約35mにも及ぶ城内最大の樹木である。

 昭和20年(1945)の和歌山大空襲で損害を受けたが、樹勢が回復し、今日に至っている。苦難を乗り越え頑張って生きてきた和歌山のシンボル的存在の樟樹を大切に守りたい。〈 「一の橋樟樹」説明書より抜粋 〉

 

紀美野町の巨樹・古木

1.「蓑津呂の大杉」(令和5年4月30日作成)

(1)所在地:紀美野町(旧美里町)蓑津呂272(蓑津呂集会場)

(2)種類等:スギ(天然記念物指定無、幹廻り 推定3m、樹齢 不明)

   

  ↑ 蓑津呂八幡と大杉

 「蓑津呂八幡」については分からないが、大きな杉の根元にお祀りされていることから、山深い地域でよく巨木や巨岩に神仏をお祀りする風習があり、蓑津呂地区にも武運の神をお祀りする武士に関わる何かがあったと思われる。

   

  ↑ 大杉の全景

   

  ↑ 大杉の近景

 桃山町垣内の丹生神社から県道4号(高野口野上線)を通り貴志川町に向けて走っていると右手に杉の巨木が目に入ってきた。

 和歌山県内の巨樹・巨木の情報は無い杉の巨木であり、ちょっと寄り道をしてみる事にした。

 近づいてみると高さは20数mありそうで幹廻りも目測で3mは優に超えていそうで此の地域のシンボル的存在であろう。

 大杉の側に、小さな祠があり近くで農作業をされている方に訪ねてみると『お祀りされているのは「蓑津呂八幡様」で、杉も相当古いですよ』との事で、記念物の指定は無いが地域には大切な大杉であり、末永く見守って欲しいと願うばかりである。

2.「野上八幡宮のイチイガシ」(令和6年2月14日作成)

(1)所在地:紀美野町(旧野上町)小畑623(野上八幡宮

(2)種類等:イチイガシ(町指定天然記念物、幹廻り 2.5m、樹齢 250年)

   

 ↑ 神門・拝殿(正面奥)

 野上八幡宮は、欽明天皇13年(552)大和国より野上へ八幡神を勧請し、千住の神である国狭槌尊(くにさつちのみこと)を聖仙山(標高232m)へ遷宮した。

 永延元年(989)に石清水八幡宮の別宮となり、万寿2年(1025)に社殿を造営された。〈 野上八幡宮の歴史説明書より抜粋 〉

   

 ↑ イチイガシの遠景

   

 ↑ イチイガシの近景
 本殿裏山に樹齢は250年で高さ約25m、幹廻り2.5mのイチイガシが雑木と並んで立っている。此の森には、町指定の同程度の太さのイチイガシが30本ほどあるそうで、野上八幡宮の森を「イチイガシの森」に育てたいと前宮司さんが言っておられた。

 歴史ある野上八幡宮に相応しいイチイガシの森に育つ様地域の方々の末永いご協力をお願いしたいものである。

3.「西方寺のモッコク」(令和6年2月22日作成)

(1)所在地:紀美野町(旧野上町)柴目385(玉川山 西方寺)

(2)種類等:モッコク(町指定天然記念物、幹廻り 1.9m、樹齢 250年)

   

 ↑ 本堂

 

西方寺は、明応年間(1492~1500)小川庄内の中田、梅本、坂本、東福井の4ケ村は、国領から、御改地で高野領となり、すべて真言宗に改宗を厳命された。

 しかるに中田村の住民のうち、三名が浄土真宗に帰依し、改宗を拒否し続け、内一人が柴目に居住して当地の人々を教化し真宗を弘め、もと中田村にあった「西方寺」の寺号を採って明応五年(1496)三月に道場を創立した。〈 西方寺沿革史より抜粋 〉

   

 ↑ モッコクの全景

   

 ↑ モッコクの近景Ⅰ

   

 ↑ モッコクの近景Ⅱ

 本堂の手前、右手の鐘楼脇に樹齢250年のモッコクの巨木が悠然と立っている。狭い境内の中で高さ10m、幹廻り1.9mの老木は一際目立った存在感があり、歴史ある古刹の霊木に相応しい名木である。是非一度訪れ西方寺の歴史に思いを馳せてみて下さい。

4.「観音寺のモミ」(令和6年2月22日作成)

(1)所在地:紀美野町(旧野上町)小畑518(宝手院 観音寺)

(2)種類等:モミ(町指定天然記念物、幹廻り 2.85m、樹齢 300年)

   

 ↑ 本堂

 観音寺には、海南駅前から大十バス登山口行で、「紀伊野上バス停」で降車し少し坂を上がった住宅地の一角にある。

 境内の大きなモミの樹が遠目にも見えるので、巨樹を目指して歩くと数分で観音寺に着きます。

   

 ↑ モミの全景

   

 ↑ モミの近景

 住宅地の一角にある寺院で境内は余り広く無く、本堂も小ぶりである為か樹齢300年高さ20m、幹廻り2.85mのモミの巨木が廻りを圧倒し一段と存在感を感じさせる。

 此のモミの樹には、マツグミやフウランが寄生していて風情があり、300年の歴史を感じる観音寺の貴重なご霊木である。

 身近に残るモミの巨木は地域の宝であり、末永く守り続けたいものである。

みなべ町の巨樹・古木

1.「南高梅の母樹」(令和5年4月26日作成)

(1)所在地:みなべ町晩稲849(有限会社 紀州高田果園)

(2)種類等:ウメの木(町指定天然記念物、幹廻り 約1m、樹齢 推定120年)

   

南高梅記念碑と南高梅の母樹

 記念碑の後部の支柱に支えられた梅の木が「南高梅の母樹」である。 

 明治35年(1902)高田貞楠氏が実生苗を植え、その中から優れたものを発見し、昭和7年小山貞一氏がこの穂木を譲り受けて栽培、これが南高梅(元々は高田梅)の始まりである。

 昭和26年(1951)南部高校竹中勝太郎先生等が5ケ年間もの研究の結果、最も優れたものを高田氏のご理解で「南高梅」と命名されたそうである。

 その後、昭和53年(1978)11月に高田孝一氏が母樹を「みなべ農業協同組合梅部会」に寄贈された。 〈 記念碑説明書より 〉

 

   

南高梅母樹寄贈の碑(昭和53年)

   

 ↑南高梅の母樹近景

 母樹は昭和53年(1978)同町の「みなべ農協本所(現JA紀州アグリセンターみなべ)に移植されていましたが、本所改築のため移植することになり老齢となった母樹の余生を少しでも長く生きて頂く為に、令和2年(2020)12月に高田智史氏が継いだ元の畑(南高梅誕生の地)へ「南高梅母樹」の記念碑とともに戻された。 

紀州高田果園 高田智史社長のお話より 〉

 *「南高梅母樹」に会いたくてみなべ町を訪れたが、詳しい場所が分からず「道の駅みなべうめ振興館」でお聞きすると、高田果園さんに連絡をしてアポを取って頂き、詳しく経路を教えてくれたり大変親切に教えて頂いた。

 又、高田果園の社長さんや事務員さんにも、お忙しい中、母樹の歴史等色々なお話を聞かせて頂く事ができ、コーヒーまでご馳走になり大変お世話になり有難うございました。今日も良い出逢いができ、感謝して帰路につきました。

2.「谷口水神の楡の巨木」(令和5年5月22日作成)

(1)所在地:みなべ町谷口538番地(道の駅 みなべ梅振興館向)

(2)種類等:ニレノキ(天然記念物指定無、幹廻り 3.1m、樹齢 130年以上)

     ↑ 水神さん

 国道424号線を「道の駅 みなべ梅振興館」に向けて走って行くと南部川の左岸に大きな木が見えてくる。

 「道の駅 みなべ梅振興館」の向かいに、ニレの巨木があり、その木の根元に「水神さん(水波の女神)」がお祀りされている。 

 此処に水神さんがお祀りされたのは、明治22年(1889)8月18,19日の台風により、上南部や清川で多くの方が亡くなり、水死者がこの附近に流れ着いた。

 谷口地区の丸山文吉氏外地区民は水死者の慰霊と堤防の安全を祈願して此の地に水神さんをお祀りしたものである。〈 旧南部川村村史より抜粋 〉

     ↑ ニレの木の全景

        ↑ ニレの木の近景1

     ↑ ニレの木の近景2
 此の巨木はニレの木で明治22年の水害時に流木が生えつき成長したと云われている。

 樹齢は130年以上で幹廻り3.1m、樹高は目測15mほどあり樹冠も推定直径20mはあり樹勢も旺盛で、まだまだ成長段階の巨木である。

 明治22年の台風では、熊野古道沿いの旧熊瀬川村自体が消滅するほどの甚大な被害が出ていて記録に残る大変な年であった。

 ニレの木の根元には、花崗岩の「明治22年水害記念碑」が建立されていて、此の地に残る悲しい歴史を後世に語り継ぐ大切な遺産であり、末永く守っていきたいものである。

*今回、この楡の巨木の投稿にあたり、みなべ町教育委員会の方のご協力により旧南部川村の村史の提供などを頂き大変お世話になったことを申し添えておきます。

3.「鹿島神社のヤマモモの老樹」(令和5年7月21日作成)

(1)所在地:みなべ町埴田20(鹿島神社

(2)種類等:ヤマモモ(町指定天然記念物、根元廻り 4.4m、樹齢 不明)

   

↑ 鹿島神社本殿

 みなべの沖合に浮かぶ「鹿島」に鎮座する「鹿島大明神」は、奈良時代以前に常陸の国(茨城県)の鹿島神宮から勧請したと伝えられ、当地は鹿島神社の遥拝所であったが、明治42年に本社を鹿島から此処に遷座されました。

 主祭神は、武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)である。

 鹿島神社では、毎年八月一日に花火を打ち上げて鹿島明神に奉納。およそ三百年前の宝永大地震の時に始まったと伝えられ、この地震では南紀一帯に有史以来の大津波が襲来したが、鹿島のお山から怪火が現れ押し寄せる高波を西と東に導き南部の浦の荒波は忽ち静まり、武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)のお力によるものと感謝のお祭りが始まりと伝えられている。

〈 花火祭縁起より抜粋 〉

   

↑ ヤマモモの全景

   

↑ ヤマモモの近景

 境内にあるヤマモモの老樹は、昭和8年(1933)の調査報告に『根元の周囲4.4m、地上1.5mの処で周囲2.79m、枝木二本その周1.43mと1.36m、樹高12.72m、親木の根元は空洞となり、御札の納める場所になっている。』と書かれているが、その後親木(主幹)が枯死、二本の枝木(萠芽)が、周1.4m、1.6m余に成長している。

〈 平成19年1月 みなべ町教育委員会説明書より 〉

4.「堺地蔵堂のソテツ」(令和5年7月23日作成)

(1)所在地:みなべ町堺(堺地蔵堂

(2)種類等:ソテツ(町指定天然記念物、幹廻り4.5m(地上1m)、樹齢 不明)

   

↑ ソテツと地蔵堂

 堺地蔵菩薩像は、『焼火(たくひ)地蔵尊』と称され、島根県隠岐の島で仁王に化けて後鳥羽上皇を危機から救ったと伝承されている。

 此の地蔵尊が堺の森の鼻まで流されてきたのを拾い揚げてお祀りしたという不思議な歴史をもつ地蔵尊で、末永く後世に伝えたい地蔵尊である。

   

↑ ソテツの全景

   

↑ ソテツの近景

 地蔵堂前庭に三株のソテツの老樹があり、昭和12年(1937)の『和歌山県史跡名勝天然記念物調査報告書』に「幹は地上1mの処から数本の支幹に分かれている故、地上60cmの最も細い処で測るに、幹周2.67mあり、樹高6.5m」とある。

 現在では地上1m余の処で幹周4.5m、他のソテツも幹周2m、2.5mで町内最大のソテツである。

〈 平成19年1月 みなべ町教育委員会説明書より 〉

5.「東岩代八幡神社のクス」(令和5年7月23日作成)

(1)所在地:みなべ町東岩代久保561(東岩代八幡神社

(2)種類等:クス(町指定天然記念物、幹廻り 5.3m、樹齢 不明)

   

↑ 東岩代八幡神社拝殿

 町の文化財に指定されている本殿は、中規模な一間流造りと称する建造物で正面169cm、側面259cm、屋根は板葺きである。

 本殿と境内社は瓦葺き覆屋内にあり、建築年代は正徳3年(1713)で、町内最古の建造物で由緒ある神社である。〈 みなべ町指定文化財説明書より 〉

   

↑ クスノキの全景

   

↑ クスノキの近景

 境内の一角に高さ約25mのクスノキの巨樹がある。

 町内で最も太い樹木で根回り9m、胸高での幹廻りは5.3mの立派なご神木のクスノキである。

 又、当神社の秋の例祭に神楽殿(長床)で奉納される『岩代の子踊り』は元禄時代(1688~1704)頃、上方の芸能者を招き習得したものと伝えられ、和歌山県文化財に指定されている貴重な文化遺産であり、末永く守り続けていきたいものである。

 

広川町内の巨樹・古木

1.「エンジュ(槐)の古木」(令和5年4月11日作成)

(1)所在地:広川町上津木(津木小学校)

(2)種類等:エンジュ(天然記念物指定無し、幹廻り 約2m、樹齢 不明)

   

  ↑ 津木小学校校舎

 明治9年(1876)に上津木小学校、下津木小学校が創立。明治41年(1908)に統合されて津木尋常小学校となる。 

 学校創立後、150年近くの歴史ある学校であるが、令和4年度の新入生は5名で全校児童は25名、少人数を生かした教育に取り組んでいる様です。

   

  ↑ エンジュの古木

 校庭の片隅にある「創立100周年記念碑」の側にあり、3本の支幹は切られ6mもあった高さも今は半分以下の高さである。

 此の木は、当初校舎の脇にある銀杏の側にあったものが、此処に移植するために剪定されたと思われる。

 「エンジュ(槐)」の木は、その丈夫な性質と名前から「延寿」に通じ、縁起の良い木と云われている。中国原産の珍しい木であるので大切に見守って頂きたい。

   

  ↑ アラカシの老木

 「エンジュ」の隣に、主幹が切断されているが上部に小枝が青々とした葉を茂らせている1本の老木がある。

 「アラカシ」の老木で上部を切断され、主幹の内部は腐って空洞化し表皮だけで立っている姿は痛々しい限りであるが、先端の枝は葉を茂らせ小さな実を付けているのを見ると、思わずがんばれと声が出る。

 こんな姿になっても、懸命に生きようとする「アラカシ」の木を大切にして欲しいという思いと、子ども達にはアラカシの木に負けずに元気で頑張る子どもに成長して欲しいと願うばかりである。

 *私は、「エンジュ」の木を見たこともなかったが、町指定の天然記念物との情報から現地に行けば表示されていると思っていたが、表示が無く確信が持てなかったので広川町の企画財政課(文化財担当部署)の方に問い合わせたところ、親切に津木小学校の校長先生の御協力も頂いて色々調べて資料を送付して頂けたので「エンジュ」という珍しい木に出逢う事ができ、皆さんの親切に感謝です。

2.「岩淵 三輪社のナギ」(令和5年5月9日作成)

(1)所在地:広川町下津木(岩淵三輪妙見社)

(2)種類等:ナギ(町天然記念物、幹廻り 2m、樹齢 250年以上)

   

  ↑ 三輪妙見社拝殿

 岩淵集落の三輪妙見社は『紀伊国名所図会』に「岩淵三輪明神社の社、此村津木谷の奥にて人家五十町許の間に散在して、人物尤質朴なり。」と載る。

 その様子は現在の姿と大差なく描かれている。当時、嘉吉(1441~1444)の年号を記した鰐口が社殿で使われていたとされている。

 石段を上った境内には、三輪社と妙見社が並び、石段には「元文四年(1739)三月吉日村氏子中」と刻まれ、『紀伊国名所図会[嘉永4年(1851)』に描かれている石段が現在も残ることが分かる。

 社殿前には享保5年(1720)と文化10年(1813)奉納の石灯籠が残っている。

   

  ↑ ナギの全景(石段左手)

   

  ↑ ナギの近景(灯篭後部)

 境内には、高さ25m、幹廻り2mのナギの巨木が拝殿前に悠然と立っていて、背後には鎮守の森が広がっている。 

 此のナギの樹齢は250年以上と云われ、広川町内でも珍しい大木である。紀伊国名所図会にも描かれている古刹である三輪妙見社と共に町内にも数少ないナギの巨木を末永く大切に保存して頂きたいものである。

 

橋本市内の巨樹・古木

1.「信太神社の樟樹」(令和5年4月7日作成)

(1)所在地:橋本市高野口町九重283(信太神社)

(2)種類等:クスノキ(県指定天然記念物、幹廻り 約7m、樹齢 400年)     

   

  ↑ 本殿

 信太神社は、伝承では、祭神は和泉国の信太の森から勧請されたものと云われ九重・上中・田原・下中の氏神で、由緒など詳しい事は分からないが、天元2年(979)拝殿・御供所・神庫・楼門を改造したと伝わる。

 地元では、土龍(モグラ)封じの神として知られ、この地域ではモグラが絶滅したと伝わる。明治42年(1909)2月村社となる。

   

  ↑ 樟樹の全景

   

  ↑ 樟樹の近景

   

  ↑ 樟樹とクロガネモチ

 信太神社の樟樹は江戸時代後期に刊行された『紀伊風土記』に見られ、樹齢400年の巨木で、樹霊が宿るご神木に相応しい風格を備えていて樹勢も良く高さ25m、幹廻り約7mと圧倒される。

 樟樹の根元から胸高周囲2.1mのクロガネモチの大木が癒合し、神秘性があり珍しい光景である。 

   

  ↑ 嵯峨の滝

 信太神社の近くに「嵯峨の滝」があり、表示板には『嵯峨の滝 一本杉ハイキングコースの中にある嵯峨天皇御休憩場所と伝承されています』と書かれていたので、ちょっと覗いてみました。

 落差は6m程度の小さな滝ですが、嵯峨天皇が此処で休憩されたとの伝承もあり、樟樹と併せて是非一度訪ねて往時を偲んでみませんか。

印南町内の巨樹・古木

1.「光明寺の蘇鉄」(令和5年4月3日作成)

(1)所在地:印南町島田1037(渦山 光明寺

(2)種類等:ソテツ(町指定天然記念物、幹廻り  3.3m、樹齢  400年以上)

   

  ↑ 光明寺の参道と山門 

 「渦山 嶋田院 光明寺」は、熊野古道沿いにある浄土宗の寺院で、ご本尊は「阿弥陀如来」である。

 JR切目駅西のガード下をくぐると右手に参道の両脇にソテツが植えられ立派な石垣の上に白壁の塀が見える。

 参道を上った右側の鐘楼の横に幹廻り3.3メートルのソテツがある。

   

  ↑ 鐘楼横の蘇鉄の全景 

   

   ↑ 蘇鉄の近景

 鐘楼のそばに樹齢400年以上と云われる印南町指定天然記念物の蘇鉄の巨木があり、町内に数多くある蘇鉄の中で最大である。

 蘇鉄の枝は一方向にばかりに出ているが、これは風の影響であるとの事で、自然の厳しさを感じる。

   

  ↑ 釣鐘代用の石

 蘇鉄の横に金具を付けた大きな石があり、側の説明書に『昭和16年に公布された「国家総動員法」に基づく金属回収令により家庭の鍋、やかん、お寺の釣鐘などあらゆる金属が供出され、光明寺の梵鐘も国へ献納された。梵鐘がなくなった釣鐘堂自体が軽くなり風の被害が心配されるため、梵鐘の代わりにこの石の重しを作り鐘楼に吊るしてバランスをとっていたそうです。太平洋戦争末期たくさんのお寺から鐘が消えた時代でした。』と書かれていて、当時を知る貴重な遺産である。

美浜町内の巨樹・古木

1.「ウバメガシの老樹」(令和5年3月27日作成)

(1)所在地:美浜町和田1786-1(御﨑神社)

(2)種類等:ウバメカシ(県指定天然記念物、幹廻り 4.5m、樹齢 1,500年以上)

   

 ↑ 御﨑神社鳥居と拝殿

 御﨑神社は、元現在地の背後の宮の谷にあり、貞観元年(859)に現在地に遷座した。日高郡内で国の正史に記載された唯一の社であり、平安後期の『紀伊国神名帳』では、「正三位御﨑神」とある。

 『紀伊風土記』に中世には、社殿壮麗で神田二町二反と記されている。

 祭神:天照坐大神・事代主大神・猿田彦大神・雷大神・天忍穂耳尊(アメノオシホノミコト)・天瓊々杵尊(アメノニニギノミコト速玉男尊 

   〈 御﨑神社由来より 〉

   

 ↑ 御﨑神社拝殿の扁額

 拝殿正面に掲げられている扁額は、天保9年(1838)紀州藩第十代藩主、徳川治宝(後に従一位大納言)が、日御碕沖を航行する船舶の安全祈願のために、自らが揮毫して当御﨑神社に奉納されたもので、第十代藩主を表す徳川家家紋の三つ葉葵の御紋が、額縁上下各4個、左右各1個の合計10個が配され、権威の高さがうかがわれる。

 奉納後178年間、同所に掲げられていたが、漆や金箔が剥げ落ち劣化したので後世への遺産として末永く保存するため平成28年(2016)復元修復された。

  〈 扁額の由来より 〉                  

     

  ↑ ウバメガシの老樹全景

   

  ↑ ウバメガシの老樹近景

 境内には、高さ約10メートル、幹廻り約4.5メートルの県内屈指のウバメガシの老樹がある。

 社伝によると清和天皇貞観元年(859)本社が、この地に遷座された時、庭木としてウバメガシ数百本を植樹したとある。これによって考えると樹齢は1,150年以上と推定される。〈 美浜町教育委員会説明書より 〉

 このウバメガシの老樹の太い幹の内部は腐食して空洞になっていて、痛々しい姿であるが懸命に頑張って生きている老樹に感動と元気を頂き、この大切な文化財である老樹を末永く守っていかなければという思いを強く感じた老樹との出逢いであった。