九度山町内の巨樹・古木

1.「イヌツゲの老樹」(令和5年3月24日作成)

(1)所在地:九度山町丹生川平見998(平見観音堂

(2)種類等:イヌツゲ(県指定天然記念物、幹廻り 1.1m、樹齢 200年以上)

   

↑イヌツゲの老樹と観音堂

 九度山町役場から丹生川に沿って蛇行する細い道を走り、更に脇道に入り山道を登った所に「平見観音堂」がある。詳しい事は分からないが、本尊の十一面観音菩薩立像は平安時代末期から鎌倉時代初期頃の作とみられ、頭上から足元まで両手先や肩から下がった天衣の先を含め、全てヒノキの一木から彫り出されている貴重な遺産である。

 過疎化や高齢化が進む集落を中心に、盗難防止のために博物館で寺の仏像を保管する事例が増えていて、ここ平見観音堂でも本尊の十一面観音菩薩立像を博物館へ寄託されている。

 〈 第21回 文化財のよこがお「融合する神と仏」より 〉

   

観音堂側から見たイヌツゲの老樹

   

観音堂方向に見たイヌツゲの老樹

 境内の「イヌツゲの老樹」は県の天然記念物に指定された昭和35年(1960)頃には高さは約6メートルもあり、『イヌツゲとしては、県下でもまれに見る老樹で推定樹齢は二百年を越え、幹は胸の高さで周囲1.1メートル、木の高さは約6メートルに達している。

 地上2.5メートルのあたりから一の枝を出し、それより上部で順次諸方に枝を張り、分枝して直径6.5メートル以上の半球形の均斉のとれたみごとな樹冠を形成している。

 元来イヌツゲは灌木性のものであるから、このような大きな幹を生じることはきわめて珍しいものと言えよう。』と側の説明書にあるが、現状、主幹は枯死して先端部は折れ、残った下部も幹の半分が腐食し今にも折れそうで痛ましい姿である。

 貴重な樹であり末永く生きることを祈るのみで、思わず『がんばれよ』と声を掛けて帰宅の途についた。

2.「北又の乳イチョウ(雄株)」(令和5年11月9日作成)

(1)所在地:九度山町北又656(北又の鎮守の杜)

(2)種類等:イチョウ(町指定天然記念物、幹廻り 3.06m、樹齢 250年以上)

   

↑ 鎮守様と乳イチョウの巨樹
 此の「乳イチョウ」に行くルートは、京奈和道の橋本ICで降り、R371号線で龍神・高野に向けて進むと「龍神・高野」と「北又」の分岐の道路標識が見えてくるので標識に従って「北又」に向って分岐した道路を進むと道路右手にあり、其処は高野山真言宗寺院西光寺の境内の様である。

   

↑ 乳イチョウの全景

   

↑ 乳イチョウの近景
 境内の端に石垣が高く積まれた一角があり、その上に小さな祠が二つお祀りされていて石垣の側に町指定天然記念物の「乳イチョウ(雄株)」の老樹が悠然と立っている。

 『イチョウは老木になると乳という気根が下がるもので、当北又のイチョウも乳がある。根元から約2m上で主幹が分かれ、それぞれの太い枝から10~50cmの気根が20本近く垂下して、気根の数は県下的にも上位にランクされている。樹齢は250年以上で幹廻りも3.06m、高さは約20mの名木である。』とある貴重な文化財、大切に守り続けたいものである。

3.「古澤厳島神社の大銀杏」(令和5年11月12日作成)

(1)所在地:九度山町上小澤鳥居元41(古澤厳島神社

(2)種類等:イチョウ(県指定天然記念物、幹廻り 4.3m、樹齢 300年以上)

   

↑ 厳島神社 拝殿

 主祭神として市杵嶋姫命(本地仏は弁財天)をお祀りされています。

 神社由来には『境内の周りを不動谷川が流れ、その形が琵琶に似て弁財天(厳島神の別名)に相応しい地形である。神社草創は明治維新の神社分離により本地堂や薬師堂等が取り払われた折、古文書等紛失し不明であるが承元元年(1208)行勝上人が敦賀の気比、安芸の厳島二神を勧請合祀、四社明神を奉祀した事からも創建は、この頃ではないかと思われる。』〈 神社由来抜粋 〉

   

↑ 大銀杏の全景

   

↑ 大銀杏の近景

 石造りの鳥居をくぐると高さ40m、樹齢300年以上と云われる県指定の天然記念物で古澤厳島神社のご神木の大銀杏が境内を見守る様に覆っている。

 神社の神域には、原生林が生い茂り太古の姿を今に伝えていて、大銀杏と共に後世に伝えていきたい大切な自然遺産である。

 今回、令和4年11月3日の文化の日に貴重な文化財を訪ねる事ができ、改めて文化財の大切さを認識できた一日であった。

4.「慈尊院のナギ」(令和5年12月29日作成)

(1)所在地:九度山町慈尊院832(慈尊院

(2)種類等:ナギノキ(町指定天然記念物、幹廻り 2.03m、樹齢 350年以上)

   

↑ 慈尊院 本堂

 慈尊院は、弘仁七年(816)弘法大師高野山開創の時に高野山参詣の要所に当たるこの地に表玄関として伽藍を創建。

 慈尊院の由来は『大師の御母公が入滅された時に、母公が弥勒菩薩になられた霊夢により、廟堂を建立して自作の弥勒仏と御母公の霊を安置された。慈尊院とは、弥勒菩薩の別名で、此れより表向きに「慈尊院」と呼ばれる様になった。』と書かれている。

   

↑ ナギの木 全景

   

↑ ナギの木 近景

 慈尊院のナギは、樹齢350年以上を超え、胸高の幹のまわりは、2.03m・高さ約15mに達し、樹勢は旺盛である。

 此の木は昭和初期に切った大イチョウの樹下で生育していたため成長が少し遅れているが網目のように露出している大小の根は、いかにも古木の趣をうかがわせている。                       〈 ナギの木説明書抜粋 〉

5.「慈尊院菩提樹」(令和5年12月30日作成)

(1)所在地:九度山町慈尊院832(慈尊院

(2)種類等:ボダイジュ(町指定天然記念物、幹廻り1.76m、樹齢 推定250年)

   

↑ ボダイジュの木 全景

 ボダイジュは、シナノキ科の植物で果実から念珠を作れる。慈尊院のボダイジュは、推定250年を超え、主幹には苔等が着生し古さを感じる。高野山附近で現存する唯一の記念すべき木である。

   

↑ ボダイジュの葉と実

 実がついた葉が落ちかけている状況で、実が多くついている葉は落葉時は竹トンボの様に廻りながら落ちるとのことである。

   

↑ ボダイジュの木 近景Ⅰ

   

↑ ボダイジュの木 近景Ⅱ

 主幹は途中で折れ、表面には沢山の瘤の様なものがあるが境内の片隅で頑張って生きている姿に感動する。九度山町の天然記念物でありながら、参拝に訪れる方にも気付かれず立ち続ける姿に愛おしさを感じながら慈尊院を後にした。

湯浅町内の巨樹・古木

1.「國津神社の老槇柏」(令和5年3月17日作成)

(1)所在地:湯浅町大字田63(國津神社)

(2)種類等:槇柏(町指定天然記念物、幹廻り 4.1m、樹齢 1000年以上)

   

 ↑ 國津神社の本殿

 國津神社の主祭神大己貴命大国主命)、少名彦命、大穴牟遅命である。

 伝説によれば素盞嗚命大己貴命大国主命)・建御名方命等、澳津島(曽加美)に至り給い、その後、小浜の大蛇島に移りて、大己貴命大国主命)宇気(現在は壁の口という)の巌窟に鎮座し給う。

 天正天皇(715~723奈良時代)の御宇神託ありて、吾この地に居ること久し、吾のために一宇を創建せよとのことで祭祀された。

 当社は、もと國津呂の宮といい、國主大明神社といったが、やがて國津神社と称され現在に至っている。〈 國津神社の由来より抜粋 〉

   

 ↑ 老槇柏の全景

   

 ↑ 老槇柏の先端部

   

 ↑ 老槇柏の根元部

 境内、本殿左手に注連縄を掛けられた樹齢1000年以上といわれるご神木の老槇柏があるが、根元部から折れ横倒しの痛々しい姿で、外壁の上に倒れ金属の支柱で支えられていて幹は白骨の様な状態である。

 先端の枝は海からの強い風雨や台風等で折れたらしいが、1本の枝には緑の葉を茂らせているが、樹冠と言える状態ではないが健気に頑張っている姿に“がんばれ”と思わず叫んでしまった。

日高川町内の巨樹・古木

1.「道成寺の槇柏」(令和5年3月7日作成)

(1)所在地:日高川町(旧川辺町)

(2)種類等:槇柏(天然記念物の指定無、幹廻り 4.65m、樹齢 700年)

   

↑ 道成寺の本堂  
 現在の本堂に相当する「堂宇」は正平12年(1357)頃造営されたとの説もあるが、今の建物は天授4年(1378)に再建されたものと言われる。

 この本堂は南側と北側の両面に正面がある珍しい構造で「両面裏無堂」と言われ南正面は通常の正面で北正面は奈良に向かう様に建てられている。
 *かつて、本堂には北面と南面に大きい二体の本尊が安置されていたが、南面の本尊千手観音像は大宝殿に移された。北面に安置されている千手観音像は北向観音と呼ばれ、33年毎に開扉される秘仏として今も本堂に安置されている。

   

↑ 槇柏の遠景       

   

↑ 槇柏の近景

 本堂右手の通路脇の石垣が積まれた所に高さ15mの槇柏は悠然と立っていて、側の駒札には「槇柏 樹齢七百年」と書かれている。

 天然記念物の指定は無いが槇柏特有のねじれと彫の深さは、天然記念物の指定を受けた樹齢400年の槇柏に勝るとも劣らない見事な名木である。

2.「船津の大楠」(令和5年5月3日作成)

(1)所在地:日高川町(旧中津村)船津(くすの木整骨院側)

(2)種類等:クス(町指定天然記念物、幹廻り 7.2m、樹齢 伝700年)

   

↑ 大楠の全景

   

↑しっかりと根を張った大楠の近景

 「船津の大楠」へは、広川町井関から県道21号(広川川辺線)に入り、県道26号(御坊美山線)と交差する平川交差点を左折して、「くすの木整体院」を目指して日高川に沿って進むと左手に「くすの木整体院」の看板がある所で分岐された道を左に進むと直ぐに左手上の山裾に大楠が見える。

   

↑ 大楠の近景と小祠

 この大楠の太さは胸高7.2m、樹高約30mあり、町内では最大のもので、樹齢は、この樹にまつわる伝説から約700年と言われている。

 『徳治年間(1306~1308)、与一という人が蓑を着て狩猟に出たが、何者かに猪に間違われ殺された。そうとは知らない家族たちは三年間捜索を続けたが見つからなかった。そこで祠を建て山神をまつって与一の無事を祈った。するとその傍らから一本のクスノキが芽を出し育ち始めた。それから数年後、加害者が罪の恐ろしさに耐えかねて自白した。遺族たちは殺害現場から白骨と蓑を持ち帰り祠に合祀した。』と語り伝えられている。〈 町教育委員会説明書より抜粋 〉

3.「下阿田木神社のイチョウ」(令和5年11月22日作成)

(1)所在地:日高川町(旧美山村)皆瀬302(下阿田木神社)

(2)種類等:イチョウ(町指定天然記念物、幹廻り 5.5m、樹齢 300年以上)

   

↑ 下阿田木神社鳥居と本殿(正面)

 国道424号を日高に向けて進み白馬トンネルを抜け、坂を下った右手に下阿田木神社がある。

 下阿田木神社は、「愛徳山(あたぎやま)熊野権現縁起」によると天仁二年(1109)の創建と伝えられ郡内指折りの古い神社で、ご祭神は伊弉諾命・伊弉冊命を本殿にお祀り、昔は「下愛徳(しもあたぎ)六所権現」と称え、別当寺「阿弥陀寺」を持つ壮麗な神社であったと云われている。

   

↑ イチョウの全景

   

↑ イチョウの近景:Ⅰ

   

↑ イチョウの近景:Ⅱ

 当神社の境内は結構広く、芝生の広場は手入れが行き届き綺麗に管理されている。

 社殿の右前に樹齢300年以上で高さ26m、幹廻り5.5mのイチョウの巨木が悠然と立っていて、歴史ある下阿田木神社に相応しいご神木は樹勢も旺盛で黄金色に輝く時期にもう一度訪ねて見たい素晴らしい神社である。

 12月4日に再度訪ねたが、残念ながら落葉し一面は黄金色の絨毯の様である。

田辺市内の巨樹・古木

1.「捻木の杉」(令和5年3月15日作成)

(1)所在地:田辺市上野(熊野古道・捻木峠)

(2)種類等:スギノキ(市指定天然記念物、幹廻り 6.0m、樹齢 不明)

   

 ↑ 市指定天然記念物の「捻木の杉」と「役の行者像」
 熊野古道高山寺から稲葉根王子へ向かう古道の途中、下三栖地区から潮見峠を越えて滝尻王子に至るルート(潮見峠越え)があり、その古道の捻木峠の頂上付近に「捻木の杉」の巨木が立っている。

 杉の根元には新旧二体の「役の行者像」と「石仏」がお祀りされている。

   

 ↑ 「石仏」と「役の行者像」

 お祀りされている新旧二体の役の行者像の間に、「捻木行者歴」の碑があり『平成9年12月盗難 平成14年11月地元有志で新設立 平成23年3月新宮市内で発見帰還する』とある。

 又、地域の方々の信仰心が厚く、綺麗なお花が手向けられている。

   

 ↑ 市指定天然記念物の「捻木の杉」の近景

 捻木の杉は高さ20m、幹廻り6mの大木で悠然と立っていて、古の人々が旅の途中、この下でひと時を過ごした場所だと思うと往時が偲ばれる。

 『この捻木の杉があるため、「捻木」または「捻木峠」と言われ、旅人がよく休息した場所です。

 昔、奥州の僧安珍を追ってきた清姫が、田辺の会津の橋を渡っている安珍を見て、悔しさのあまり身をよじって杉の木も捻じ曲げてしまい、それがそのまま成長したのがこの木だと言い伝えられています。』〈 捻木説明書より 〉

 ここから槇山の山腹を東へ約2km進むと、この潮見越えルート一番の見晴らしポイントの「潮見峠」である。

 古の熊野古道に残る伝説の杉の巨木や今なお地域の方に見守られている役の行者像等歴史とロマンが漂う大切な遺産で、是非皆さんも一度訪ねてみては如何ですか。

2.「八幡宮の大杉」(令和5年3月26日作成)

(1)所在地:田辺市大塔村下川上(八幡宮

(2)種類等:スギ(市指定天然記念物、幹廻り 8.2m、樹齢 300年以上)

           

 ↑ 八幡宮の鳥居と大杉

 八幡宮についての記述がないので詳しい事は分からないが、古来より自然崇拝をする風習があり、山深きこの地の方々が大杉の根元に小祠を建てお祀りする様になったのであろう。

 只、八幡神は武運の神であり、何故ここに八幡様がお祀りされたのか?。

 大塔村には「大塔宮護良親王」ゆかりの侍臣・平賀三郎終焉の場所等歴史に残る史跡があることから、この八幡宮も歴史的文化遺産のロマンが偲ばれる。

   

 ↑ 大杉の全景

   

 ↑ 大杉の近景と小祠

 初めてこの大杉を訪ねたのが、令和4年9月だったが八幡宮周辺は背丈以上に伸びた雑草で、見つけることができなかったが12月8日に訪ねると雑草は綺麗に刈り取られ道路から鳥居が見え、その向こうに大杉がはっきりと見えた。

 近づくと大杉の根元に小さな祠がお祀りされ、八幡様をお守りするかの様に悠然と立つ神々しい姿にやっと逢うことができた。

 大杉は高さ23メートル、幹周8.2メートルで途中から幹は二つに分かれ、それぞれ4.35メートル、3.64メートルもあり樹齢は300年以上と云われご神木として八幡宮は勿論、此の地域の方々を見守り続けている。

 *「八幡宮の大杉」の場所を見つけるに、田辺市冨里支所の職員さんにお聞きしたり、近くに住むおばあさんに十数メートル離れた登り口まで案内をして頂いたり大勢の皆様方の親切のお陰でやっと大杉に出逢える事ができました。

3.「三豊神社の大杉」(令和5年4月19日作成)

(1)所在地:田辺市大塔村面川1419(三豊神社)

(2)種類等:スギ(市指定天然記念物、幹廻り 5.7m、樹齢 推定300年)

   

 ↑ 三豊神社の全景

   

 ↑ 三豊神社の本殿

 江戸時代は、四社明神社と云われ面川の産土神明治元年春日神社と改称され同6年4月村社に列せられる。

 同10年9月、村内の小社合祀奨励ににより5社を合祀し、さらに同41年3月の一村一社の神社合祀令に基づき、三川、豊原両村内の神社(合川の三条神社、古屋の矢倉神社、佐田の牛頭神社他)33社を合祀し、社名を三豊神社と改称した。〈 三豊神社の由来より 〉

   

 ↑ 左:双幹の杉全景 右:大杉の全景

   

 ↑ 手前:大杉の近景  奥側:双幹の杉の近景
 境内には、多くの杉の大木があり、その中に市指定天然記念物の樹高45m、幹周5.7mもある大杉は三豊神社のご神木である。

 又、其々が3.97m・3.70mの双幹の杉等があり、何れも樹齢は約300年を過ぎていると推定される。

 社叢を形成する樹木の中でも際立った存在で、ご神木として古くから地域の住民によって大切に守られている。〈 大杉の説明書より 〉

4.「唐楠(タブノキ)の古木」(令和5年5月3日作成)

(1)所在地:田辺市大塔村下川下

(2)種類等:タブノキ(市指定天然記念物、幹廻り 6.43m、樹齢 約250年)

   

 ↑ 唐楠の古木全景(上手より)

 「唐楠の古木」へのルートは、R311号から県道219号(下川上牟婁線)に入り、内の井川に沿って進み田辺市役所冨里連絡所を過ぎると「下川上」への道路標識があり、標識に従って右折(橋)すると唐楠の古木が道路右手に見えてくる。

   

 ↑ 唐楠の古木近景(上手より)

   

 ↑ 唐楠の古木近景(下手より)

 道路標識に従って下川上地区に向って日置川を渡ると直ぐに右手の橋のたもとに2幹に分かれた大塔村指定の「唐楠(タブノキ)の古木」が悠然と立っている。

 古木の根元には、昭和51年12月20日指定の石柱があり、「大塔村指定文化財」、「唐楠(タブノキ)」と刻まれている。

 樹齢約250年の古木は、高さ12m、幹廻り6.43mの見事な巨木である。

タブノキが唐楠と呼ばれる理由?

 中国では、タブノキを漢字では「楠」とかきます。日本ではクスノキを漢字で書く場合は「樟」と書くことから、唐楠はタブノキと呼ばれる。

 〈 小杉波留夫氏著 東アジア植物記より 〉

5.「法恩寺のソテツ」(令和5年11月8日作成)

(1)所在地:田辺市下三栖1424(臨済宗妙心寺派 法恩寺

(2)種類等:ソテツ(天然記念物指定無、幹廻り 7.69m、樹齢 350年)

   

 ↑ 法恩寺の全景

   

 ↑ 法恩寺の本堂

 平安中期、一条天皇の時代に尾張の国熱田に定尊法師という高僧がいて、一夜、善光寺如来が現れ「我が像を七体造り諸国に安置するように」とお告げがあり、その内の一体を無双の霊地熊野の入口であるこの三栖の郷に、浄覚山法恩寺を建立し泰安したと伝えられていて、紀南各地から紀州善光寺さん、南海道善光寺、三栖の如来さんとして宗派を超えて多くの信者を得、殊に牛馬の守り仏として広く信仰されてきました。

 境内には二株のソテツの巨木が植えられていて、正面の一株は高さ7m、樹齢350年の日本一のソテツと云われている。

   

↑ ソテツの全景

   

↑ ソテツの近景

 本堂正面のソテツは、幹廻り7.69mと立派なソテツで、見る人を圧倒する巨樹で紀州善光寺さんと云われる古刹の霊木に相応しいソテツの巨樹で、自立するのが困難なのか、倒れないように丸太で支え保護されている。

 由緒ある法恩寺の歴史と景観や地域の人々を見守ってきたソテツの巨樹は、此れからも地域の人々に見守られ末永く、由緒ある当寺院や地域の景観と共に守り続けて頂ける事を心から願うばかりである。

6.「住吉神社の大杉」(令和5年11月9日作成)

(1)所在地:田辺市中辺路町小松原123(住吉神社

(2)種類等:スギノキ(市指定天然記念物、幹廻り 5.7m、樹齢 700年以上)

   

↑ 住吉神社の全景

   

↑ 社殿

 滝尻方面から本宮に向けてR311号を進むと龍神バスの「紀伊中川」バス停付近で左折してR371号に入り直進、二川トンネルを過ぎると左カーブの所に「小松原方面直進」の標識があり、小さな橋を渡り中川に沿って進むと小松原集落に入ると直ぐに道路右下に森があり、其処が住吉神社である。

 住吉神社勧請の年代は詳らかでないが、江戸時代には社名を「住吉大明神」と云い、明治元年住吉神社と改め、明治6年4月に村社になった歴史を持つ神社である。

   

↑ 大杉の全景

   

↑ 大杉の近景

 社殿を守る様に五本の大杉が立っていて、高さが43mもある。特に社殿正面の二本は幹廻り5.7mと住吉神社の歴史を物語るご神木に相応しい樹齢700年以上の巨樹である。

 境内には杉以外の巨木が残り、創建時は広大な鎮守の杜であったと思われる貴重な遺産である。

 これからも後世に語り継いでいきたい大切な文化財である。

 

紀の川市内の巨樹・古木

1.「大神社の樟」(令和5年3月9日作成)

(1)所在地:紀の川市粉河2090(大神社)

(2)種類等:クスノキ(市指定天然記念物、幹廻り 11.4m、樹齢 1000年余)

                 ↑ 大神社と大樟
 大神社は粉河寺大門の近くに鎮座し、天正年間藤堂高虎が猿ケ丘城粉河秋葉山に在城の際、氏神として崇敬された神社で高虎が伊勢へ転封の節、現社殿を改築したと伝えられ、現社殿の装備の一部に室町時代彫刻の遺風が残され、更に神木と称される大楠樹が周囲を圧して聳立し、天然記念物として樹齢千年余と推察され、この社が古社であることを自ずと証している。〈 大神社由来より抜粋 〉

           ↑ ご神木の樟の近景
 西国三十三番札所の第三番霊場粉河寺門前通りを少し入った左手に、通りに面して「大神社」があり、小さな社とご神木の樟の巨木がある。

 天保10年(1839)に纏められた『紀伊風土記』の中に那賀郡粉河粉河村の項に「大神宮大門前ににあり、粉河村中北町の産土神なり、境内楠の大樹あり周囲三丈五尺許」とこの大楠について記されているとおり、高さ20m、胴周15mの堂々たる巨樹で、正にご神木に相応しい樟である。

2.「光明寺の松」(令和5年3月9日作成)

(1)所在地:紀の川市名手市場1397(遍照山 光明寺

(2)種類等:松(県指定天然記念物、幹廻り 2.9m、樹齢 推定400年)

            ↑ 遍照山 光明寺山門と松
 光明寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で永正4年(1507)僧了道の開基で、その後天正11年(1583)境内拡張の時、村の富豪忽助が自庭内にあった松を寄進して、本堂前に植えたものと伝えられ、県の天然記念物に指定されている。           

         ↑ 山門に向かって撮影

            ↑ 本堂斜め左前から撮影
 此の松の樹齢は、400年内外と推定され、本幹の周り2.9m、高さわずか70cmで子幹は南西北の三方向に射出して、水平に延びあい、よって傘状の優雅な樹観を形成している。此の横への延びは、庭園の関係上、この様に仕立てられたもので優雅な樹容は本堂に一層の美観を添えている。〈 「光明寺の松」説明書より 〉

 光明寺の境内はあまり広くなく、山門と本堂の間に植えられた松の木は庭全体に広がり、数多くの支柱に支えられているが、綺麗に手入れをされている。子幹等には苔が付き樹齢400年の歴史を誇る県指定天然記念物に相応しい巨木で、皆さんにも是非見て頂きたい。

3.「黒川庚申堂」の山桜」(令和6年4月4日変更)

(1)所在地:紀の川市桃山町黒川(庚申堂)

(2)種類等:ヤマザクラ(市指定天然記念物、幹廻り 3.2m、樹齢 300年)

   

ヤマザクラの巨木と庚申堂

 庚申堂の詳しい事は分からないが、庚申の夜は眠らずに夜通し語り明かして夜明けを待つという行事が行われていた。庚申堂や庚申塔は、庚申信仰に基ずくもので、全国各地に江戸時代に多く建てられ、現在も続いている。

   

ヤマザクラの全景

   

ヤマザクラの近景

 庚申堂境内にあり、高さ20m、幹廻り3.2mのヤマザクラで町内でも数少ない巨木である。幹は苔むしていて樹齢300年と云われる古木で、庚申堂のご霊木に相応しい存在感で満開の花をつけた姿は素晴らしさを感じる名木であり、是非とも一度桜観賞に来て頂き、末永く見守って頂けたらと願うヤマザクラである。     

4.「大歳神社の椋とイチイガシ」(令和5年4月16日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町調月1110(大歳神社)

(2)種類等:ムクノキ(町指定天然記念物、幹廻り 2.82m、樹齢 300年)

 イチイガシ(天然記念物指定無、幹廻り3.0m(最大)、樹齢500年)

          ↑大歳神社本殿と鎮守の森

 大歳神社の主祭神・大歳神は弥生の太古、素戔嗚尊と櫛稲田姫の第5子三男として出雲で生まれ、西日本・九州の倭国統一にあたり、父・素戔嗚尊を支えたと伝えられ、父神の崩御後九州から物部氏を率いて讃岐、播磨を経て河内に東遷し日本を命名された。

 さらに大和から東北地方まで統合し、日本王朝・大和王国を築かれ、日本建国の祖となった覇王だと云われる歴史ある神が祀られる神社である。〈 由来説明書より 〉

         ↑椋の全景

       ↑椋の近景 

 神社正面の鳥居をくぐると社務所があり、その前の小さな池に架かる橋の左手に池に被さる様に、高さ15mの椋の巨木がある。

 樹齢300年と云われ、幹廻りは約3mと古刹に相応しい巨樹である。

        ↑大歳神社の梵鐘

 この梵鐘は、建治三年(1277)鋳造の銅鐘で鋳造の精巧さは鐘の音色と共に美術工芸品として極めて高く鎌倉時代の特徴がよく表れていて、県の文化財に指定されている貴重な文化遺産である。〈 文化財説明書より 〉

          ↑イチイガシの全景

          ↑イチイガシの近景

 大歳神社の森はイチイガシの純林と云われ、森全体が旧桃山町の天然記念物に指定されていて、昔はもっと広大だったが戦後の財政難で奥の方の木は切って売られたそうである。

 淋しくなった森ですが、樹齢500年のイチイガシは高さ36m、太いもので幹廻り3.6mと歴史ある大歳神社の森に相応しい巨樹である。

 この貴重な「鎮守の森」を守り、後世に伝えなければという思いが、より強くなる神聖な場である。

   

↑木下美代子女史の記念碑

 神社境内の一角に教育者で歌人の木下美代子女史の記念碑が建てられている。

 碑には『白櫧(しらかし)の鎮守の森をあそび場に日月(じつげつ)の歩み遅々たりし日よ』と詠まれている。

 歌に続いて、略歴が刻まれている。

 1909年調月保田家に生まれる

 調月小学校

 県立粉河高等女学校

 東京女子高等師範学校

        卒業

  教育者 歌人

 巨木を探して境内を歩き廻っていると記念碑があり、教育者で歌人の木下美代子女史の歌が詠まれているが、薄学の私には初めて知る方で、帰ってネット等で調べたが詳しいことが分からなかったが、後世に伝えるべき郷土の文化人であり、此処に紹介した。

5.「丹生神社のコウヤマキイヌマキ他」(令和5年4月22日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町垣内278(丹生神社)

(2)種類等:コウヤマキ(町指定天然記念物、幹廻り 2.4m、樹齢 300年)

イヌマキ(町指定天然記念物、幹廻り1.7m、樹齢 300年)

ナギ(町指定天然記念物、幹廻り1.55、樹齢 250年)

   

↑丹生神社拝殿

 細野渓流キャンプ場管理事務所の前に、丹生神社拝殿への上り口があり65段の階段を上ったところに拝殿がある。

 ご祭神は丹生都姫命、誉田別命市杵島姫命吉備津彦命他10神がお祀りされていて、那賀郡細野村々内の艮(うしとら)方向に位置し、往時は本殿・能舞台・御供所・太子堂・鳥居・馬場の規模からなり、渓流が裾を巡り老杉・老檜が森々とした神域に囲まれた場所に鎮座している。〈 神社由来より 〉

        コウヤマキイヌマキの全景                    

     ↑左:コウヤマキ 右:イヌマキ

 拝殿の右手に、高さ30mのコウヤマキと26mのイヌマキの巨木が悠然と立っている。何れも樹齢は300年と立派な巨木で、由緒ある丹生神社のシンボルに相応しい。

 又、コウヤマキイヌマキが抱き合う様な珍しい巨木でもあり、末永く大切に守りたい名木である。

   

↑ナギの全景

   

↑ナギの近景

 拝殿から一段下がった境内の左隅に高さ15mのナギの巨木があるが、主幹に瘤ができたり苔類が繁茂したりして樹勢が衰えているが、その姿は樹齢250年の歴史を感じる稀少なものなので大切に守っていきたい。

6.「丹生神社のカヤ」(令和5年4月23日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町垣内278(丹生神社)

(2)種類等:カヤ(町指定天然記念物、幹廻り 2.8m、樹齢 300年)

   

  ↑ カヤの全

   

  ↑ カヤの近

 丹生神社境内の南端に県道に通じる道があり、県道との三叉路近くの少し分かり難い場所にある。

 高さは15mとびっくりするほど大きくはないが、樹齢300年に相応しい樹幹で苔類や風蘭などが繁茂し、300年の歴史を物語る巨樹である。

*神社の上り口にある「細野渓流キャンプ場管理事務所」で、「丹生神社のカヤ」についてお聞きしたら、地元の方に電話で聞いて教えて頂きましたが、見つけられず境内をウロウロしていると事務所の職員さんが、「見つかりましたか」と言って神社まで来て一緒に探してくれ、やっと「丹生神社のカヤ」に会える事ができました。

 初めて訪ねた土地で、今回もまた地域の方々の親切によって探し求めた巨樹に会えました。「巨樹・古木を訪ねて」今日も新たな人との出逢いができた感謝の一日でした。

7.「神明神社の樟・椋・ナギ」(令和5年4月26日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町市場166-1(神明神社

(2)種類等:クス(町指定天然記念物、幹廻り 5.4m、樹齢 400年)

       ムク(町指定天然記念物、幹廻り 2.86m、樹齢 250年)

       ナギ(町指定天然記念物、幹廻り 1.6m、樹齢 250年)

   

↑ 神明神社の社と境内の巨樹

 此の辺りは昔、森だったのか伊勢の森と呼ばれ旧記に「美福門院当荘に幽棲の折この森に宿願あって勧請し大神宮を祀った」と伝えられ、此の辺りを伊勢森垣内(いせもりがいと)と呼ばれ、近くには飼馬垣内(かいばがいと)と呼ばれる地区がある。

 明治41年三船神社に合祀されたが、由緒ある神社でその後分祀し、社が建てられた。

   

  ↑ クスの木の全景

   

  ↑ クスの木の近景

 境内北西の隅にある高さ30mのクスは、樹齢400年で幹廻りも5.4mと境内で最も大きな木である。

 神社北側の道路を挟み安楽川小学校があり、このクスの木に寄り添い目を閉じ、子供たちの声を聞くと何とも言えない安らぎを覚える貴重な場所である。

 町中に残る数少ない貴重な場所であり末永くこの環境を守っていきたいものである。

   

  ↑ ムクの木の全景

   

  ↑ ムクの木の近景

 境内の北東角に樹齢250年のムクの巨木があり、高さは20m余りで幹廻りは3m弱である。

 秋には実をつけ、昔は子供たちがムクの実を拾う光景がよく見られたそうである。

 境内のムクの中で最も大きいこのムクの木は、樹勢もよく大切に守りたい木である。

   

  ↑ ナギの木の全景

   

  ↑ ナギの木の近景

 境内南東の角にある高さ1.5mのナギの巨木は、樹齢250年、幹廻り1.6mと町内でもナギの巨木としては数少ない樹で、クス・ムクと同様に末永く大切に守りたい大切な巨樹である。

   

 ↑ 森田無絃女史の頌徳碑

 神明神社境内の一角に立派な青石でできた頌徳碑があり、正面に「森田無絃女史頌徳碑」と刻まれている。詳しい事は紀の川市の「広報 紀の川」2008年12月号に「天下に聞こえた女流文学者」との見出しで掲載されている。

 無絃女史は、江戸時代末期から幕末まで勤皇派の大儒学者として活躍した森田節斉の妻で、節斉の没後明治8年無絃は息子司馬太郎が安楽川村市場小学校に訓導(先生)として着任を機に桃山町荒見から桃山町市場に移り住み、明治29年(享年71歳)に東京で没し荒見北家の墓域に夫節斉、息子司馬太郎と並んで静かに永遠の眠りについています。〈 「広報 紀の川」より 〉

 神明神社の「伊勢の森」や「無絃女史」について、地元のおばあさんから貴重なお話と無絃女史からのお手紙を見せて頂く等大変お世話になりました。

 今日もまた、素晴らしい出逢いに感謝して帰路につきました。

 【森田節斉翁の墓地】

   

↑左から節斉翁・無絃女史・司馬太郎

 無絃女史は夫節斉翁、息子司馬太郎と並んで「荒見 北家の墓域」に永遠の眠りについているとのことで、紀の川市教育委員会生涯学習課の方のご協力で『森田節斉翁の墓地(県指定文化財)』を訪ねる事ができました。

 県指定文化財であるが、墓石は苔むし雑草や笹が茂り荒れている。又、史跡説明板も一部の文字が消えはっきりと読めない状態であり、歴史に残る偉人の眠る墓地が荒れている事に胸が痛む思いで、末永く守って欲しいと願うばかりであった。

8.「野田原の杉」(令和5年4月30日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町野田原光長(普賢菩薩

(2)種類等:スギ(町指定天然記念物、幹廻り 3.1m、樹齢 300年)

   

  ↑ 大杉根元の普賢菩薩

 県道貴志川垣内線を野田原光長地区に向けて走ってくると右手に小さな祠が大杉の根元にお祀りされている。

 普賢菩薩と刻まれた灯篭があり、目指す大杉である。

 普賢菩薩はあらゆる方面にわたって賢く、全ての人びとを救済するとされる仏様です。

 何故、此処に普賢菩薩がお祀りされているのかは分からないが、地域の方々の信仰心が厚いのか立派な石の灯篭が置かれ、祠の中には綺麗な花が手向けられている。

   

  ↑ 大杉の全景 

   

  ↑ 大杉の近景

 大杉は、県道沿いにあり樹齢は300年で幹廻り3.1m、高さ40mの大きさに圧倒される。20年程前には普賢菩薩の左側に大杉と同様に旧桃山町指定天然記念物の樹齢350年、高さ30m、幹廻り2.9mのカシの古木があったが切られ、今は大杉しか残っていない。

 大杉は樹勢も良く荘厳さがあり、根元にお祀りされている普賢菩薩のご霊木としてこれからも地域の方々に守られ末永く信仰されるとともに大杉も大切に保存されることだろう。

9.「野田原の樫の古木」(令和5年4月30日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町野田原光長(子安地蔵)

(2)種類等:カシ(天然記念物指定無、幹廻り 約3m、樹齢 不明)

   

  ↑ 樫の古木と子安地蔵尊

 普賢菩薩の大杉から10mほど来ると県道の右手奥に樫の古木の後ろに簡単な社に「子安地蔵尊」がお祀りされている。

 子安地蔵尊は安産を叶えるお地蔵様で、お参りすると安産になるそうです。地元の方のお話では、相当古い地蔵尊で昔から地域で守ってきているとのことで、信仰心も厚く綺麗なお花が手向けられている。〈 お参りに来られた方より 〉

   

  ↑ 樫の古木の全景

   

  ↑ 樫の古木の近景

 地蔵尊の側に樹齢等不明のカシの古木があるが、主幹は高さ4~5mの辺りで折れたので切断され、樹高は12~13m程度で樹幹も無く痛々しい姿で頑張っている。

 幹廻りは目測であるが3m近くもあり、樹齢は数百年と思われるカシの古木の樹幹には苔等が繁茂し苦難の歴史を物語っている。

 厳しい自然に抗いながら生きてきたカシの古木に“これからも負けずにがんばれヨ!”と声を掛けて帰路についた。

 *カシの古木について地元の方にお聞きしたところ、切断されたところからカシの木が折れ、お地蔵様を避ける様に山側に倒れた。お陰でお地蔵様に被害が出なかったが、折れた主幹を切断除去したとの事であった。

10.「美福門院供養地の樟」(令和5年5月1日作成)

(1)所在地:紀の川市桃山町最上(美福門院供養地)

(2)種類等:クス(町指定天然記念物、幹廻り 3.3m、樹齢 300年)

   

  ↑ 美福門院 五輪塔と祠 

 鳥羽上皇の皇后として、また近衛天皇の母として権勢を極めた美福門院(1117~1160)だが、一人子の近衛天皇がわずか16歳で逝去した後は、世の無常を儚み晩年は安楽川荘に隠棲して、44年の生涯を終えた。

 院を弔った祠と五輪塔がひっそりと佇んでいる。

   

  ↑ 灯篭と角塔婆

 角塔婆の脇に、『此の角塔婆の直下1メートルに大きな楠の根に巻き押えられたる青い自然石にて作る天蓋あり、底辺約40センチ四方で三角形に造らる、此の所にて火葬の上御埋葬なし奉りし事確実なりと拜察す。』と書かれた表示板が置かれている。 

   

  ↑ 樟の全景

   

  ↑ 樟の近景

 美福門院供養地にある樟の巨木は周囲25mの供養地の中央にあり、樹齢は300年で高さ25m、幹廻り3.3mの巨樹で森の様である。

 樟の根元には院の御分骨が葬られていて、五輪塔が納められた祠等を守る様に立ち続けている。

 紀伊風土記によれば『門院の御分骨をこの地に葬りエンジュを植えてしるしとなす』と記されているがエンジュの木は無く、樟になっているが、歴史に残る貴重な遺産であり末永く大切に保存したいものである。

11.「踞木地の大樟」(令和6年2月8日作成)

(1)所在地:紀の川市粉河粉河2787(粉河寺)

(2)種類等:クス(市指定天然記念物、幹廻り 7.81m、樹齢 500年以上)

   

 ↑ 粉河寺の本堂

 西国三十三番霊場の第三番札所として信仰を集めている粉河寺、ご本尊は千手千眼観世音菩薩の粉河観音宗で、開祖は大伴孔子(おおとものくじこ)である。

 鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ケ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有したが天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成された古刹である。

   

 ↑ 大樟の全景

   

 ↑ 大樟の近景

 本堂東の鐘楼の側に樹齢500年以上で高さ16m、幹廻り7.81mの立派な樟の巨木が悠然と立っていて、根元に『踞木地』と刻まれた石碑が建てられている。

 『このクスノキ寺伝によれば「光仁天皇宝亀元年、西暦770年)の頃、大伴孔子古は、この木に踞して下を通る鹿などを・・・・・」と記されていて、このクスノキはその踞木地にあり、かなりの樹齢であると推定される。』と書かれた表示板がある。

   

 ↑ 湯浅桜の全景

   

 ↑ 湯浅桜の近景

 本堂脇に「湯浅桜」と呼ばれる桜の古木があり、『紀州湯浅の住人、藤原宗永が当山ご本尊千手観音のお告げによって本堂の巽(東南)の方に植えたものでこれを湯浅桜という。宗永は九十三才で亡くなったがその孫は湯浅氏を名のり今も健在である。』とあり、粉河寺を訪れた際には是非とも立ち寄って頂きたいものである。

 

12.「十禅律院のイブキ(柏槇)」(令和6年2月13日作成)

(1)所在地:紀の川市粉河粉河2849(十禅律院)

(2)種類等:イブキ(市指定天然記念物、幹廻り 3.93m、樹齢 不明)

   

 ↑ 十禅律院の本堂
 天台宗安楽律院派の寺院、ご本尊は阿弥陀如来平安時代の正歴元年(990)石崇上人によって創建され、天台宗粉河寺の塔頭、十禅院であったが江戸時代後期寛政12年(1800)、紀州藩第10代藩主徳川治宝により天台宗安楽律院派の寺院に改められ十禅律院として復興された。

 本堂や龍宮造の築地門等4棟は県指定有形文化財の古刹である。                    

   

 ↑ イブキの全景

   

 ↑ イブキの近景Ⅰ

   

 ↑ イブキの近景Ⅱ

 門を入った左手に高さ8m、幹廻り3.93mのイブキ(柏槇)の巨木がある。樹齢は不明であるが、主幹の捩じれや太さからかなりの老木と思われる。

 横に張り出した枝は、前後左右に伸び樹勢も旺盛で十禅律院の霊木に相応しい樹である。残念な事に境内には雑草が茂り、建物も相当傷みが酷く住職も居ない様で、古刹と思えない状況である。

 十禅律院の栄枯盛衰を見続けてきたイブキの老木は今何を思っているのかと、ふと感じ何とかこの古刹を修復して末長く守って頂きたいと切に願いながら帰路についた。

13.「浄土寺の榎」(令和6年3月30日作成)

(1)所在地:紀の川市那賀町平野89(浄土寺

(2)種類等:エノキ(天然記念物指定無、幹廻り 4.85m、樹齢 500年以上)

   

  ↑ 本堂

 浄土寺は、平野農業会館の隣にあり、宗派は真言宗山階派である。ご本尊は大日如来様とある。

   

 ↑ エノキの全景

   

↑ エノキの近景Ⅰ

   

 ↑ エノキの近景Ⅱ

 狭い境内?(駐車場)の本堂向かい側の端に天然記念物の指定は無いが樹齢500年以上、高さ15m、幹廻り4.85mの榎の巨木が悠然と立っている。

 地元の方の話では『此れは榎では無く、ムクノキだと云われた。境内?(農業会館駐車場)を舗装してから、此の木は弱ってきた。』とも話されていた。

14.「勝神の大カヤ」(令和6年4月23日作成)

(1)所在地:紀の川市粉河町勝神325(勝神神社)

(2)種類等:カヤノキ(市指定天然記念物、幹廻り 6.0m、樹齢 500年以上)

   

↑ 勝神神社の社殿

 代々の神職家の再度の火災により文章等一切を焼失、創建年代、由緒等は不明である。主祭神天忍穂耳命は、全名を正哉吾勝々速日天忍穂耳尊と云い、略して勝神と呼び当地の地名の由来となったと云われる。

 大正3年(1914)字垣内鎮座の八幡神社を合祀、社名が勝神神社となった。

   

 ↑ カヤノキの全景

   

↑ カヤノキの近景Ⅰ

   

↑ カヤノキの近景Ⅱ

   

↑ カヤノキの近景Ⅲ

 勝神神社境内の石垣に食い込んだ形で、樹齢500年以上の勝神の大カヤは高さ15m、幹廻り6.0mの堂々たる巨樹で樹勢も旺盛で悠然とした立ち姿は見る者を圧倒する存在感である。

 天然記念物指定名称は、「勝神薬師寺のカヤ」となっているので、此処に薬師寺があったと思われるが寺院の面影は無く神社として整備されている。

15.「賽の森の椋の木」(令和6年4月23日作成)

(1)所在地:紀の川市粉河町杉原912-1(山本氏所有)

(2)種類等:ムクノキ(市指定天然記念物、幹廻り 6.0m、樹齢 400年)

   

↑ 根元の賽の神

 椋の木の根元に小さな石仏がお祀りされているのが、集落や家に疫病神など悪い神が入らない様に祈る神、賽の神様である。

 多くの場合、集落の入口や辻(十字路や三叉路)に立てます。又、地域によっては同祖神とも云われている。

   

↑ ムクノキの全景

   

↑ ムクノキの近景Ⅰ

   

↑ ムクノキの近景Ⅱ

 推定樹齢400年と云われる椋の古木は、高さ24m、幹廻り6.9mの堂々たる巨樹である。椋の木には、苔やカズラが巻き付き400年の歴史を感じる貴重な地域の宝であり末永く守り続けて頂きたいものである。

有田川町内の巨樹・古木。

今週のお題「元気を出す方法」

1.「与田八幡の姥目老樹」(令和5年3月4日作成)

(1)所在地:有田川町岩野河

(2)種類等:バベ(町指定天然記念物、幹廻り 4.0m、樹齢 600年)

   

↑ 与田八幡の小祠と姥目の老樹近景

   

↑ 老樹カシの全景                            

 有田川町岩野河地区に、樹齢600年の有田川町指定天然記念物の「与田八幡の姥目老樹」がある。幹廻り(目通し高さ)4.0m、高さ8mの立派なバベの木である。

 この姥目老樹の側にお祀りされている「与田八幡」について、『昔、与田垣内という武士が移り住み八幡様を祀っていた。社格の高いお宮であったといわれる。

 八幡神社は、平安時代以降、武士から武運の神「弓矢八幡」として尊崇を集め、全国に八幡神社が勧請されたという。』記述があり、後世に伝えたい遺産である。

2.「不行の森(ゆかんどのもり)」(令和5年3月5日作成)

(1)所在地:有田川町吉見

(2)種類等:(町指定文化財

       ↑ 不行の森への上り口

      ↑ 不行の森の板碑(南朝皇胤のお墓?)

 「不行の(ゆかんどのもり)」とは、みだりに立ち入ってはならぬ所の意味で、義有王(よしありおう)の陵墓「ゆかんどの森」である。義有王は、後村上天皇の第六皇子であった説成親王(かねなりしんのう)の子、大僧正円悟(円胤(えんいん))のことで、還俗して義有王といった。

 文安元年(1444)南朝方の残党と共に兵を挙げ、大和、紀伊に転戦して湯浅城を守り固めたが、文安4年(1447)戦没した。

 享年40歳、里人は、今なお聖地として南朝皇胤の霊を弔っていて、お墓には綺麗な花が手向けられている。

 なお、この付近の山中には義有皇の部下の墓といわれる数基の板碑が点在しているとあるが、町社会教育課の担当の方は付近には、この板碑以外は無いとのことである。

 又、お祀りされている板碑は義有王のものかどうかは分からないが、室町時代のものであるとの事である。有田川町指定文化財説明書より 〉

3.「金屋橋の椋の木」(令和5年3月8日作成)

(1)所在地:有田川町金屋(金屋橋北詰)

(2)種類等:椋(町指定天然記念物、幹廻り 4.1m、樹齢 600年)

     

 ↑ 椋の木と周辺の状況

 金屋橋北詰に高さ12mの椋の巨木が悠然と立っていて側には元信用金庫の建物が残っているが、この周辺は昭和28年7月18日の水害で橋は流され対岸の下徳田地区(通称:かなせ地区)で多くの家が流され大勢の方が亡くなる大水害であった。

 当時この場所に「栖原屋」という旅館があったが、今は無く周囲は大きく変わり当時を知る人も少なくなったが、70年の歴史を見続けてきた「椋の木」だけが今も変わらず立っている。

    

↑ 歴史の生き証人の伝説の椋の木

 「7.18水害」では、多くの方が家屋と共に流され、屋根に乗って流れて行く人を只見るしかできない事に無力を感じたことが思い出される。

 幹廻り4.1mで樹齢600年と言われるこの「椋の木」には、

 『室町時代 義正将軍の頃、2本の椋の若苗が流れ着いたが、南北の両岸に生い育ち互いの根を絡ませ兄弟の契りを結び、地味が適していたのか、何れ劣らず巨樹に育った。今から500年程前、何の故もなく南岸の椋の木は心なき人々に切断されたが、その後、度々疫病の災難がおこった。恐れた人々は巨大な根株を掘りとって洗い浄めて供養すると禍がおさまって安堵したそうである。残った兄分の椋はこの木である。』〈 町文化財説明書より 〉

 この様な伝説と歴史をもつ「椋の木」は大切な遺産であり、7.18水害の記憶と併せて後世に伝えていきたいと強く感じる大事な巨木である。

4.「浄土寺のクス」(令和5年3月10日作成)

(1)所在地:有田川町西ケ峯(浄土寺

(2)種類等:クスノキ(県指定天然記念物、幹廻り 8.8m、樹齢 600年以上)

   

 浄土寺の本堂

 浄土寺は、平安時代末期の寿永年間(1182~1183)の開基とされ、法然上人の弟子であった感西上人が熊野参詣の帰路に西ケ峯を通り、一寺を建立したことに始まるとされています。

 その後一時衰退していたのを文正年間(1466~1467)に道心法師が中興したと伝えられています。

 浄土寺の本尊は「蹴破の阿弥陀さん」と呼ばれる伝説が残されている。

   

↑ 県指定の天然記念物のクス

   

↑ 樹洞にお祀るされた太子像

 このクスは、幹廻り8.8m、樹高17mを測る大樹で、和歌山県内における最大級のクスノキで、木の根元には大きな樹洞があり聖徳太子の石像がお祀りされている。

 浄土寺の本尊は聖徳太子の作という伝承があり、慶長年間(1596~1614)に浄土寺が火災にあったとき、本尊の阿弥陀如来がこの樹洞に逃れたという伝説がある。

 

   

↑ 蹴破岩(けわりいわ)と石碑

 浄土寺から500m余り東に坂道を進むと左手に山中へと続く細い道があり、「蹴破の阿弥陀さん」伝説の『蹴破岩』に続いている。

 蹴破岩の前に建てられた石碑には、上部に蹴破岩、その下段右側に「文禄元年十月十三日夜」とその左側に阿弥陀如来盤石ヲ蹴破リ給フ霊地」と彫られている。

『蹴破の阿弥陀さん』の伝説 

 西ケ峯は、水不足で水田を開くことが難しい土地でしたが、文禄元年(1592)村の北西にある「能蔵(のど)の谷」や「楠谷」に池を造り用水路を造る工事が始められたが、途中で大岩がはだかり、工事が進められず困り果てた村人達は、毎夜毎夜阿弥陀様に祈願した。

 数日後、大岩に来てみると、大岩が真っ二つ割れていて、その間を水が流れ、岩の割れ目に血がついていました。

 血の跡をたどって行くと寺の本堂まで続いており、阿弥陀様の足が裂けて、血が流れていました。村人達は、阿弥陀様が岩を蹴り割ってくださったと感謝し、毎年11月14日に十夜法要を営むようになりました。〈 有田川町教育委員会説明書より 〉

5.「薬師寺のイブキビャクシン」(令和5年3月13日作成)

(1)所在地:有田川町小島364

(2)種類等:イブキビャクシン(町指定天然記念物、幹廻り2.9m、樹齢300年以上)

   

 薬師寺の本堂
 薬師寺は、西山浄土宗の寺院で起原等は不明であるが、お祀りされている「薬師如来坐像」や「観音菩薩立像」、「天部立像」は平安時代後期に造られた貴重な町指定の文化財である。

 又、薬師寺から山頂にかけての地名が昔から「薬師谷」と呼ばれている事から一帯にお堂やお墓があったと思われる古刹である。

   

 ↑ 町指定天然記念物のイブキビャクシン

 境内には、小さな本堂と樹齢300年以上のイブキビャクシンの巨木が立っているだけであるが、歴史のある薬師寺の御霊木に相応しいイブキビャクシンである。