和歌山市の巨樹・古木

1.「岡山の根上り松群」(令和5年5月2日作成)

(1)所在地:和歌山市吹上町1丁目1(和歌山大学教育学部附属小・中学校)

(2)種類等:クロマツ(県指定天然記念物、幹廻り 不明、樹齢 不明)

   

 ↑  和歌山大学教育学部附属小・中学校

 附属小・中学校のある場所は『伏虎山からのびる砂丘で、吹上の峯と云い岡山・奥山ともいった。

 旧藩時代、此処に岡山文武官がおかれ、南は和歌浦、西は紀淡海峡を望み、北は伏虎城(和歌山城)を仰ぎみ紀の川の流れを超えて遥か紀泉の連山望む風光明媚な土地であった。

 慶応二年、これが学習館とよばれ、文武合併の教授所となり紀州の藩立学校となり、明治二年藩制改革の際に学制を改革して四民のための学校となり、「館内の席次ハ身分ノ高卑ヲ論セス其学力ノ次序ニ拠ル」べきものとした。』とあり、長い歴史と伝統のある学校です。〈 附属小学校の歴史より抜粋 〉

   

   ↑ 根上り松の全景

        

   ↑ 根上り松の近景

   

   ↑ 紀伊国名所絵図
 岡山は、古い和歌山湾の海浜に添って形成された何本かの砂丘の一つで、、此処吹上一丁目の附属小・中学校構内付近は、比較的本来の姿が残っている。

 砂丘上にはクロマツ林が自生しているが、その中で根元が露呈した特異な姿を示すものが何本かあり、根上り松と呼ばれ、奇観として「紀伊国名所絵図」(1811年刊行)にも記載されているが現在ではこの岡山砂丘のものだけが残っている。

 〈 岡山の根上り松群の説明書より抜粋 〉

 場所が分からず、県立博物館の職員の方に色々お聞きし『附属小・中学校の構内にあり、昔は八本ほどあったが今は一本しか残っていない様です』と忙しい中、親切に教えて頂いたお陰で根上り松に出逢う事ができました。

 永い歳月が奇観を生み出した貴重な自然遺産が、運動場の真ん中に残っているのを見て、学校関係者や児童・生徒の皆さんがこの松に対する強い思いが感じられ、末永く大切に保存して頂きたいと願うばかりである。

2.「一の橋の樟」(令和5年5月2日作成)

(1)所在地:和歌山市一番町(和歌山城

(2)種類等:クス(県指定天然記念物、幹廻り 7m、樹齢 400~500年)

   

   ↑ 一の橋と大手門

 和歌山城内に入る正面の大手門と一の橋である。天正13年(1585)に羽柴秀吉の命で弟の秀長が築城、家老桑山重晴を城代として置きました。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修繕を行い、浅野期の途中で内郭北東部のこの位置に橋を架け門を設置して大手とした。

 紀州徳川家も引き続きここを大手としたが、橋を「市の橋」、門を「市の橋御門」と呼んでいたが、寛政8年(1769)から「大手御門」と改称し、橋は「一の橋」に変えた。

 大手門は高麗門形式で土塀や多門が連なり西の石垣には月見櫓が建っていて、一の橋には高欄擬宝珠がつけられていた。

   

  ↑ 樟守神社とご神木の樟樹

   

  ↑ 石垣下より見上げるご神木の樟樹
 一の橋を渡り大手門から場内に入ると、すぐ右側石垣の上に立つ樟の大樹が目に入ります。

 樹齢は400~500年と云われ幹の周囲7m、樹高25mで巨大な樹冠を形成し、太い枝を四方に伸ばし、約35mにも及ぶ城内最大の樹木である。

 昭和20年(1945)の和歌山大空襲で損害を受けたが、樹勢が回復し、今日に至っている。苦難を乗り越え頑張って生きてきた和歌山のシンボル的存在の樟樹を大切に守りたい。〈 「一の橋樟樹」説明書より抜粋 〉