有田川町内の巨樹・古木。

今週のお題「元気を出す方法」

1.「与田八幡の姥目老樹」(令和5年3月4日作成)

(1)所在地:有田川町岩野河

(2)種類等:バベ(町指定天然記念物、幹廻り 4.0m、樹齢 600年)

   

↑ 与田八幡の小祠と姥目の老樹近景

   

↑ 老樹カシの全景                            

 有田川町岩野河地区に、樹齢600年の有田川町指定天然記念物の「与田八幡の姥目老樹」がある。幹廻り(目通し高さ)4.0m、高さ8mの立派なバベの木である。

 この姥目老樹の側にお祀りされている「与田八幡」について、『昔、与田垣内という武士が移り住み八幡様を祀っていた。社格の高いお宮であったといわれる。

 八幡神社は、平安時代以降、武士から武運の神「弓矢八幡」として尊崇を集め、全国に八幡神社が勧請されたという。』記述があり、後世に伝えたい遺産である。

2.「不行の森(ゆかんどのもり)」(令和5年3月5日作成)

(1)所在地:有田川町吉見

(2)種類等:(町指定文化財

       ↑ 不行の森への上り口

      ↑ 不行の森の板碑(南朝皇胤のお墓?)

 「不行の(ゆかんどのもり)」とは、みだりに立ち入ってはならぬ所の意味で、義有王(よしありおう)の陵墓「ゆかんどの森」である。義有王は、後村上天皇の第六皇子であった説成親王(かねなりしんのう)の子、大僧正円悟(円胤(えんいん))のことで、還俗して義有王といった。

 文安元年(1444)南朝方の残党と共に兵を挙げ、大和、紀伊に転戦して湯浅城を守り固めたが、文安4年(1447)戦没した。

 享年40歳、里人は、今なお聖地として南朝皇胤の霊を弔っていて、お墓には綺麗な花が手向けられている。

 なお、この付近の山中には義有皇の部下の墓といわれる数基の板碑が点在しているとあるが、町社会教育課の担当の方は付近には、この板碑以外は無いとのことである。

 又、お祀りされている板碑は義有王のものかどうかは分からないが、室町時代のものであるとの事である。有田川町指定文化財説明書より 〉

3.「金屋橋の椋の木」(令和5年3月8日作成)

(1)所在地:有田川町金屋(金屋橋北詰)

(2)種類等:椋(町指定天然記念物、幹廻り 4.1m、樹齢 600年)

     

 ↑ 椋の木と周辺の状況

 金屋橋北詰に高さ12mの椋の巨木が悠然と立っていて側には元信用金庫の建物が残っているが、この周辺は昭和28年7月18日の水害で橋は流され対岸の下徳田地区(通称:かなせ地区)で多くの家が流され大勢の方が亡くなる大水害であった。

 当時この場所に「栖原屋」という旅館があったが、今は無く周囲は大きく変わり当時を知る人も少なくなったが、70年の歴史を見続けてきた「椋の木」だけが今も変わらず立っている。

    

↑ 歴史の生き証人の伝説の椋の木

 「7.18水害」では、多くの方が家屋と共に流され、屋根に乗って流れて行く人を只見るしかできない事に無力を感じたことが思い出される。

 幹廻り4.1mで樹齢600年と言われるこの「椋の木」には、

 『室町時代 義正将軍の頃、2本の椋の若苗が流れ着いたが、南北の両岸に生い育ち互いの根を絡ませ兄弟の契りを結び、地味が適していたのか、何れ劣らず巨樹に育った。今から500年程前、何の故もなく南岸の椋の木は心なき人々に切断されたが、その後、度々疫病の災難がおこった。恐れた人々は巨大な根株を掘りとって洗い浄めて供養すると禍がおさまって安堵したそうである。残った兄分の椋はこの木である。』〈 町文化財説明書より 〉

 この様な伝説と歴史をもつ「椋の木」は大切な遺産であり、7.18水害の記憶と併せて後世に伝えていきたいと強く感じる大事な巨木である。

4.「浄土寺のクス」(令和5年3月10日作成)

(1)所在地:有田川町西ケ峯(浄土寺

(2)種類等:クスノキ(県指定天然記念物、幹廻り 8.8m、樹齢 600年以上)

   

 浄土寺の本堂

 浄土寺は、平安時代末期の寿永年間(1182~1183)の開基とされ、法然上人の弟子であった感西上人が熊野参詣の帰路に西ケ峯を通り、一寺を建立したことに始まるとされています。

 その後一時衰退していたのを文正年間(1466~1467)に道心法師が中興したと伝えられています。

 浄土寺の本尊は「蹴破の阿弥陀さん」と呼ばれる伝説が残されている。

   

↑ 県指定の天然記念物のクス

   

↑ 樹洞にお祀るされた太子像

 このクスは、幹廻り8.8m、樹高17mを測る大樹で、和歌山県内における最大級のクスノキで、木の根元には大きな樹洞があり聖徳太子の石像がお祀りされている。

 浄土寺の本尊は聖徳太子の作という伝承があり、慶長年間(1596~1614)に浄土寺が火災にあったとき、本尊の阿弥陀如来がこの樹洞に逃れたという伝説がある。

 

   

↑ 蹴破岩(けわりいわ)と石碑

 浄土寺から500m余り東に坂道を進むと左手に山中へと続く細い道があり、「蹴破の阿弥陀さん」伝説の『蹴破岩』に続いている。

 蹴破岩の前に建てられた石碑には、上部に蹴破岩、その下段右側に「文禄元年十月十三日夜」とその左側に阿弥陀如来盤石ヲ蹴破リ給フ霊地」と彫られている。

『蹴破の阿弥陀さん』の伝説 

 西ケ峯は、水不足で水田を開くことが難しい土地でしたが、文禄元年(1592)村の北西にある「能蔵(のど)の谷」や「楠谷」に池を造り用水路を造る工事が始められたが、途中で大岩がはだかり、工事が進められず困り果てた村人達は、毎夜毎夜阿弥陀様に祈願した。

 数日後、大岩に来てみると、大岩が真っ二つ割れていて、その間を水が流れ、岩の割れ目に血がついていました。

 血の跡をたどって行くと寺の本堂まで続いており、阿弥陀様の足が裂けて、血が流れていました。村人達は、阿弥陀様が岩を蹴り割ってくださったと感謝し、毎年11月14日に十夜法要を営むようになりました。〈 有田川町教育委員会説明書より 〉

5.「薬師寺のイブキビャクシン」(令和5年3月13日作成)

(1)所在地:有田川町小島364

(2)種類等:イブキビャクシン(町指定天然記念物、幹廻り2.9m、樹齢300年以上)

   

 薬師寺の本堂
 薬師寺は、西山浄土宗の寺院で起原等は不明であるが、お祀りされている「薬師如来坐像」や「観音菩薩立像」、「天部立像」は平安時代後期に造られた貴重な町指定の文化財である。

 又、薬師寺から山頂にかけての地名が昔から「薬師谷」と呼ばれている事から一帯にお堂やお墓があったと思われる古刹である。

   

 ↑ 町指定天然記念物のイブキビャクシン

 境内には、小さな本堂と樹齢300年以上のイブキビャクシンの巨木が立っているだけであるが、歴史のある薬師寺の御霊木に相応しいイブキビャクシンである。